南房総市の歴史
~安房~
・「安房」の由来
南端部の国名・郡名
『古語拾遺』によると神武天皇が天太玉命(あめのふとだまのみこと)の孫 天富命を遣わし、沃壌の地(=豊かな土地)を求め、阿波の斎部をわけ、麻や穀物を育てたところが安房郡 →忌部氏が四国の阿波(=徳島)から移住したので「アワ」
・律令制以前この地域には、阿波国造と長狭国造の2つの国造が置かれていた。律令制において令制国である上総国の一部となり、718年6月4日上総国のうち阿波国造と長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を分けて安房国とした。国造は「阿波」の表記であり、藤原京出土木簡に「己亥年(西暦699年)十月上挟国阿波評松里」とあるなど、郡(評)の表記には何通りかあるが、713年の好字令で南海道の「粟国」が「阿波国」に変更されて「安房」の表記となった。
・東京(江戸)湾の入り口に半島先端が位置したため、関東における政権所在地(鎌倉、江戸、東京)から戦略的な要衝の地とみられていた。
・鎌倉と安房:鎌倉幕府の成立においての安房の武士たちのかかわり。
当時安房国の豪族には、平群郡の安西氏や安房郡の神余氏、あるいは朝夷郡の丸氏、さらには長狭郡に長狭氏や東条氏がいたとされている。平群郡という地域は、かつて平安末期に平北郡と呼ばれ、鎌倉期から戦国期にかけては北郡、江戸期には平郡といわれていた。とくにこの地域は、鎌倉期から室町期にかけて安西氏の勢力圏とされ、なかでも平松城をもつ三芳・池之内を拠点にしていた安西景益は、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房へ逃れてきたとき、安房国衙の在庁官人であったとされている。
→『吾妻鑑』によると頼朝とは「幼少より昵懇の安房国住人安西景益」と記載されるなど、保元・平治の乱以前から源氏の家人であったと思われる。
・里見氏と安房
戦国時代に安房国を掌握、房総半島に勢力を拡大し、戦国大名化した氏族を“安房里見氏”という。「関東副帥」、「関東副将軍」を自称。安房里見氏初代の里見義実→安西氏を追放して領主になったとされる。しかし、入国の詳細が不明なこと、資料による確認ができないことから初代・2代目成義を架空とする説あり。
※滝川馬琴の『南総里見八犬伝』は、安房里見氏の初期、義実から成義(作中では義成)の時期を設定年代としている。
文書で確認できる最初の当主は3代目(とされる)義通→鶴谷八幡宮に納められた棟札には「鎮守符将軍源朝臣政氏(古河公方足利政氏)」の名とともに「副帥源義通(里見義通)」の名が記されている。
~南房総~
・房総半島の富浦町、富山町、和田町、丸山町、千倉町、白浜町の6町と三芳村が合併して2006年に誕生した。
三芳村は安房国の国府所在地。
丸山町は1728年にインド産の乳牛3頭が輸入され乳製品を作ったことから、我が国における酪農の発祥地と言われている。
【参考文献】
浅井 健爾著『平成の大合併 県別市町村名辞典』、株式会社 東京堂出版、2006年
天野 努監『図説安房の歴史 千葉県の歴史シリーズ』、郷土出版社、2009年
大野 太平著『房総里見氏の研究』、寶文堂書店、1933年
小笠原 長和監 『千葉県の地名(日本歴史地名大系 12)』、 平凡社、1996年
特定非営利活動法人(NPO法人)安房文化遺産フォーラム、『安房の歴史』
出典:http://bunka-isan.awa.jp/About/item.htm?iid=216 (閲覧日:2016年5月23日)
山中 襄太著、「地名語源辞典」、株式会社校倉書房、昭和43年
(文責:グループ5増尾 美来)
南房総市の産業
南房総市の農業
南房総市の農家数は4,295戸、専業農家907戸、兼業農家は3,388戸で農業従事者は7,245人である。(平成21年度安房農林振興センター資料)
南房総市の農産物は、温暖な気候を生かしたものが多い。おもな農産物としては、果物だと、ビワ、イチゴ、ミカンが生産され、ビワ狩り、いちご狩り、ミカン狩りなどが観光客に人気である。また、花卉などの園芸も有名である。一方、近くの館山市と比較してみると、館山市では、那古・沼地区でびわ、館野・豊房地区でいちごが生産されていることや、花卉などの園芸に特化していることは共通しているが、館山市では他にも稲作や自然薯、レタスが有名な農産物であるところは南房総市とは異なる点であろう。特に、レタスは日本で最初に栽培が開始されたといわれており、神戸(かんべ)地方でとれる冬レタスは「神戸レタス」というブランドで出荷されている。
平成21年の農業産出額から、千葉県の南房総と鋸南と館山で主に生産されている作物で、生産量が全国1位のものを挙げたい。
品目 | 産出額 | 全国に占める割合 | 生産地 | |
ストック | 10億円 | 53% | 南房総・館山 | |
なばな | 16億円 | 47% | 南房総・鋸南 | |
キンセンカ | 3億円 | 98% | 南房総 |
この三品目は、いずれも花である。なお、2位の品物としては、びわと洋ラン、4位のものはカーネーション、切り葉、スターチスなどがある。この結果から、南房総市、またはその周辺地域は温暖な気候を生かした花卉の生産が日本トップクラスであることがわかる。
南房総市の水産業
南房総市では、様々な海の幸(イセエビ、アワビ、サザエなど)がとれるとされているが、もっとも有名なものはクジラなのではないだろうか。南房総市の和田地区には、関東で唯一の捕鯨基地がある。他には、北海道、宮城、和歌山にあり、全国に五つしかない。6月から8月にかけて約26頭のツチクジラを捕獲し、捌く。国際捕鯨委員会(IWC)では、ツチクジラを保護の対象外としており、捕獲を年間66頭まで許可している。ツチクジラは、小型の鯨で、体長約10メートル、重さは約11トンほどである。
南房総の捕鯨はおよそ400年の歴史を持つことで知られる。江戸時代の明暦年間に鋸南町勝山で捕鯨が始まった。初代醍醐新兵衛定明と、二代明廣が捕鯨漁民を組織したことにルーツを持ち、一度明治四年に組織は解体したが、明治40年に再開された。江戸時代には、鯨油が農薬になり、内臓と骨は肥料として利用された。
一般的に、捕鯨の方法として「網とり法」が主であるが、南房総では、銛による「突取法」が採用されている。これは、水深が深い房総の海(約600m)に深く潜るツチクジラを仕留めるためである。また、特徴として、捕獲されたツチクジラを、身を柔らかくするために海水中に16時間放置され、熟成させるということがある。
ツチクジラは、様々な料理法で食べられるが、特にこの地域で有名なのが「クジラのたれ」である。これは、ツチクジラを塩水や調味液につけ、天日干しにして乾燥させたものである。
【参考文献】
小松 正之「江戸東京湾 くじらと散歩」 株式会社ごま書房 2004年
小松 正之「クジラと日本人」 株式会社 プライム涌光 2002年
成瀬 宇平「47都道府県・魚食文化百科」丸善出版 2011年
南房総 いいとこどり(http://www.mboso-etoko.jp/,閲覧年月日 2016年5月25日)
館山市ホームページ (http://www.city.tateyama.chiba.jp/nousuisan/page000794.html,閲覧年月日 2016年5月25日)
南房総農業支援センター(http://masc.or.jp/mboso.html,閲覧年月日 2016年5月25日)
南房総市白浜地域に広がる農業 安房農林振興センター (pdf)(www.pref.chiba.lg.jp/kouchi/documents/einou13,閲覧年月日 2016年5月25日)
たてやまGENKIナビ 筆者名 東 なぜ館山にはレタスを使った料理が多いの?
(http://navi.tateyamacity.com/?p=168,閲覧年月日 2016年5月25日)
千葉県教育委員会 房総捕鯨と房州ビワ(https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/sonohoka/kyoudo/kuroshio/hogei.html
,閲覧年月日 2016年5月25日)
南房総郷土史 水産業史 クジラについて(http://www.mboso-etoko.jp/kyoudo/suisan/kujira_01.html,閲覧年月日 2016年5月25日)
千葉・南房総のクジラ漁 400年の伝統 地域で守る懐かしの味 千葉支局長 清水省吾2015/8/12 日本経済新聞 夕刊(http://style.nikkei.com/article/DGXKZO90362220Q5A810C1NZ1P01#,閲覧年月日 2016年5月25日)
(文責:グループ2 今川航介)
南房総の産業:花卉産業
南房総は花の産地として有名であり、複数の由来があり、公共社団法人千葉県園芸協会の団体の一つである千葉県花卉園芸組合連合会創立五十周年記念誌『房州の花』によると、南北朝時代の第35代花園天皇が逃避させた姫が、持っていた花を村人に分け与え、それが和田町に花が伝わる契機となったというエピソードが紹介されている。
また、もう一つの由来として南房総和田町で生まれ育った間宮七郎平の花づくりがある。間宮は、当初薬剤師を目指していたが、父親の死を契機に一家を支える立場となり、実家の農家業と、薬剤師の勉強を通して学んだ知識やスキルとの両立を目指し日々模索していたが、その結果たどり着いたのが、花づくりであったという。
1919年、館山まで鉄道が開通したおかげで南房総と東京との距離が縮まり、徐々に花づくりが盛んになった。しかし、当時は食料にならない花を作ることに対する風当たりは強く、親や村人から反対されたようだが、間宮は諦めずに花づくりを続けた。1922年、間宮の苦労が実り、ようやく東京都内の生花店との取引が始まり、またこの年には和田浦駅も開通し、和田町の花づくりは盛んになっていった。間宮にとっては、花づくりを通して半農半漁の生活を営む人々の貧しい生活が救われることが何よりも嬉しいことだったという。
間宮は当時の花づくりにとっての偉業を次々と達成し、1933年には農業用の溜地を抱くように石を積んで作り上げた『抱湖園』を開設し、その桃源郷のような風景は現在でも和田町随一の桜の名所として知られている。昭和初期の不況や太平洋戦争など、花づくりが禁止された時期なども含め、多くの苦難を乗り越えて花づくりを続け、1953年の天皇皇后両陛下の千葉行幸を契機として、再び和田町の花づくりが始動した。
南房総市が発表している統計によると、平成22年では市内の農家戸数は3807戸であり、農業従業者数は5770人である。近接している館山市と比較したところ、同じ年の統計で農家人口は3469人、自営農業従業者数は2483人である。南房総の花卉の農業経営体 営農類型別経営体数(戸)は、全体2,430戸中の707戸であり、ほかの農業の種別と比べ、最も高い割合を占めており、また農業産出額は1,583千万のうち、花卉は611千万を占めており、他の農作物と比べはるかに高い割合を占めている。
南房総は、周りが海に囲まれており、その地形から海浜植物が多く栽培されている。
市のホームページでは、季節ごとの花が紹介されており、ハマヒルガオやスカシユリ、ハマユウなど、主に初夏の花を中心として、多くの海の花を楽しむことができる。館山市でも花の栽培は行なわれており、ユリやなどが販売されているほか、多くの店で地域の産業イベントなどが催されており、ヒマワリ狩りなどの体験を実施するところもある。
南房総の丸山町では、ローズマリーを町のシンボルとしており、1991年に設置されたローズマリーガーデン(公園)は5700m²の広さを持つ庭園であり、家族連れなど多くの人が賑わう観光名所の一つとなっている。1997年にはこの隣接地にローズマリーの台詞が多く使われているシェイクスピア・カントリー・パークをオープンし、公園の観光客は大きく増大した。現在、花卉産業は南房総の観光を大きく支えており、市内のホームページなどでも多くのツアーなどが紹介されている。今後も南房総を支える産業の一つとして発展を続けていくだろう。
【参考文献】
鳥海園芸 「南房総和田町のお花栽培の歴史 間宮七郎平」(http://toriumiengei.jp/history/ 閲覧日 2016年5月25日)
抱湖園/千葉県公式観光情報サイト-まるごとe!ちば- 「抱湖園」(http://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/8607 閲覧日2016年5月25日)
南房総郷土史 農業史「南房総各地の花栽培」(http://www.mboso-etoko.jp/kyoudo/ 閲覧日2016年5月25日)
「平成27年 南房総市統計書」 南房総市企画部情報推進課 2016年1月(http://www.city.minamiboso.chiba.jp/cmsfiles/contents/0000001/1326/H27toukeisyo.pdf 閲覧日2016年5月25日)
「南房総の地誌研究 2002年度」 法政大学地理学教室 2003年1月18日-20日
(文責:グループ2 木野本 優香)
南房総市の地理・自然環境
南房総市によると、その位置は房総半島の南端にあり、北側には県下最高峰の愛宕山(408m)をはじめ、富山(349m)など300m以上の山が連なっています。西側には東京湾、東側および南側には太平洋と3方を海に囲まれ、その海岸線は、南房総国定公園に指定されています。
またその気候は、沖合を流れる暖流の影響により冬は暖かく夏は涼しい海洋性の温暖な気候で、一部無霜地帯を有しています。
参考文献
『南房総市 暮らしの便利帳』「南房総市の概要」2015年3月 p.6
(文責:グループ4 箕輪 祐亮)
南房総市の文化
南房総市の観光名所
・白浜フラワーパーク
白浜フラワーパークはその名の通り色とりどりの花があるスポットではありますが、私たちが特にお勧めしたいのは、毎年6月に行なわれている「南房総 蛍ファンタジア」です。昼間は緑に満ちたジャングルのような温室が、夜になると黒一色に染まります。その中にかすかに漂う蛍の光はなんとも幻想的な雰囲気を醸し出していました。都会の夜景もいいですが、自然が作り出すイルミネーションに触れてみては如何でしょうか。
【参考資料】
白浜フラワーパーク『【公式サイト】関東最南端のリゾート観光施設 白浜フラワーパーク』,http://flowerpark.awa.jp, (閲覧日5月24日)
・野島崎灯台
南房総の南端にある野島崎灯台はその内部に入ることができ、灯台の先端からは太平洋をパノラマで見ることができます。私達が行った時はあいにくの薄曇りでしたが、それでも十分に雄大な海を堪能することができました。また、野島崎灯台の周りには公園や、岩場の上に設置された南房総最南端のベンチなるものもあり、思っていた以上に楽しむことができました。
【参考資料】
南房総市『野島埼灯台(白浜の灯台)』, http://www.mboso-etoko.jp/cgi-bin/co_kaniHP/info.asp?uid=504 ,(閲覧日6月30日)
南房総市の工芸品
・房州うちわ
南房総市には暑い夏の時期を乗り切る上で心強いアレの生産をしています。それは房州うちわです。房州うちわは江戸時代にその生産が始まり、明治期には安房郡全体の一大産業となりました。現在では京都の「京うちわ」、香川県の「丸亀うちわ」と共に日本三大うちわの一つとして数えられています。丸い扇部には細い竹が何本も通り、その上に貼り付けられた和紙には鮮やかな絵や模様が描かれていてとても美しい工芸品です。
【参考資料】
南房総市『南房総市|房州うちわ』, http://www.city.minamiboso.chiba.jp/0000001419.html ,(閲覧日6月30日)
南房総市のお祭り
・南無谷の夏祭り(富浦)
・白間津の大祭(千倉町)
このお祭りは千倉町で五年に一度行われるお祭りで、7月23日からの3日間開かれます。
このお祭りは少年少女が華麗に舞い、青年たちによる万灯振りが催されます。そして、日天・月天がついた大幟(おおのぼり)を引く「大縄(おおな)渡し」が一番の見所です。
【参考資料】
田村 勇『房総の祭りと芸能 南房総のフィールドから』大河書房,2004年,P.14-33
南房総市を舞台とした物語
・『南総里見八犬伝』
『南総里見八犬伝』は滝沢馬琴によって文化11年(1814年)になんと28年もの時間を費やして描かれた長編伝奇小説です。この中に登場する伏姫と八房がともに暮らしたとされる洞窟「伏姫の籠穴」が南房総市富山にあります。
【参考資料】
FIND TRAVEL『千葉・白浜で里見八犬伝の史跡めぐりの旅♪南房・白浜の史跡観光のスポットを紹介します!!』(http://find-travel.jp/article/14691,閲覧日2016年5月24日)
・『1Q84』
2009年出版された村上春樹による長編小説『1Q84』にも、小説内の主人公の父親の療養先として南房総市の千倉が登場しています。
【参考資料】
村上春樹『1Q84』新潮社,2009年
(文責:グループ1 井上 野歩)
南房総市旧町村(阿波郡富山町・三芳村・白浜町・千倉町・丸山町・和田町)
三芳村 の特徴
三芳村(みよしむら)は面積33.92平方キロメートルの、安房群の中央部に位置し、旧安房国の中で唯一海に臨まない自治体である。1953年に安房郡稲都村、平郡滝田村、国府村の合併により三芳村となり現在にいたる。産業は農業が主であり、米作・酪農のほか花弁や苺・みかん・メロン栽培がおこなわれている。
三芳村には増間という伝説の村がある。増間は山村で交通が不便であり、買い物にも不自由が多く、昔は自給自足のような生活が強く、最近まで綿を作り、こんにゃくを製造していた。家屋も茅葺屋根が残っており、分棟形式の家屋が現存する。そのような環境もあり、豊臣家の落人の里とか平家の隠れ里とか言われ、落人が身を隠すため馬鹿をよそおい世間の目を逃れたという伝説がある。これが増間ばなしとして伝わっていて、30話ほどある。しかし、現在は増間も昭和4年にはダムが作られ、また中央貫通通路が整備され、花弁栽培・乳牛飼育も発展していて増間も変わりつつある。
【参考文献】
下中弘『日本歴史地名大系第一二巻 千葉県の地名」株式会社平凡社 1996年
(文責:グループ3山川大貴、2016.5.12)
千倉町の特徴
旧千倉町は南房総市の南東に位置している。温暖な気候、黒潮からの海産物、豊かな山に囲まれており、非常に住みよい町である。交通の便は鉄道、バスが開通するまでは非常に不便で、運賃の高い馬車は医者や役人が使う程度で、一般の町民は通学などを徒歩で賄っていた。鉄道は1921年に千倉駅、1927年に千歳駅が開通し、現在も使われている。
また、1954年に千倉町、七浦町、健田村が合併し、新たな千倉町となった。このとき町名を千倉で変更しなかった理由は、千倉の漁港が全国的に有名であり、国鉄房総線の要衝であったため、混乱が起きないように改変されなかったのである。
千倉町の主な産業は漁業、農業(花き栽培が多数)であったが、太平洋ベルト構想のあがった60年代になると、工業化の動きが進み、千倉町の人々も工場に出稼ぎに行くようになり、第一次産業は次第に減少していった。しかし全国的に見ても現在の千倉町周辺は農業が発展している地域であり、花の栽培は今でも多く営まれている。そして漁業面では千倉、七浦、白間津、大川、平磯、川口、忽戸、白子の八つの漁港があり、サバ、サンマ、カツオなどを水揚げしている。
観光業では磯釣りの適地としてよく知られており、四季を通じて釣り客でにぎわいを見せている。他に海水浴場、花畑などを観光資源にしている。
【参考文献】
千倉町史編さん委員会著 『千倉町史』株式会社ぎょうせい 1985年
(文責:グループ3大下 由佳、2016.5.12)
白浜町の特徴
南房総市の合併以前、安房郡白浜町は千葉県の最南端に位置していた。昔は真間村と呼ばれており、その後仁安の時代(1166年頃)には白羽真間村となった。安房郡白浜町という名称になった時期は定かではない。
白浜町はその立地からも、海との関係が深い。治承年(1177年頃)に源頼朝が白浜から上陸、統治したのを筆頭に、室町時代には南総里見八犬伝でも有名な里見義實もこの地に至った。 白浜町で起こった有名な事件が、ダコタ号海難事故である。1907年2月、横浜を出港した巨船ダコタ号が白浜に座礁、沈没した。この船は一等船客69名、2,3等客25名、帰来移民若干名、船員200名を乗せており、さらに郵便物、貨物を積んでいた。白浜の海は風が強く難所として知られていたが、船長のフランク氏は、東京の天候が穏やかであるならば沖合も穏やかであろうと予想してしまい、惨事となった。その後の救助の末、乗員乗客は全員無事であったが、白浜町が大きなニュースに取り上げられる機会となったのである。
もう一つ白浜町で有名なものが、野島崎燈台である。この燈台は幕府がイギリス、アメリカ、フランス、オランダと江戸条約を結んだ際に設置を決定したものであり、日本に数か所しかない第一等の燈明台として、難所白浜の信号の役割を果たすことになったのである。この白浜の燈台はフランス人技術士ウェルニ―の助手、チポジーが建設した。1870年1月19日に初点燈され、その後50年以上使用されてきたが、関東大震災の影響で倒壊。1924年から復旧作業を行い、日本初の電波燈台として運転を再開したが、またも太平洋戦争の戦火によって使用不能にまで追い込まれた。1947年には完全復旧し、電波の発達とともに野島崎燈台も進化していった。現在は有形文化財として公開されており、一般にも公開され、観光スポットとしても機能している。
【参考文献】
佐藤精一 奥富敬之著『安房白濱町近代史料集Ⅱ』新人物往来社 1991年
(文責:グループ3大下 由佳, 2016.5.12)
富山町の特徴
富山町(とみやままち)は面積40.43平方キロの安房郡の北西部に位置し、西は海に臨む町である。町域の南東部の丸山町境に御殿山、中央部北側に伊予ヶ岳、西部に富山がある。現在の産業としては、西部の岩井地区は西洋蔬菜や花弁類、そして柑橘類東を栽培しており、東部の平久里地区は酪農地帯となっている。海岸部の久枝、高崎、小浦では一本釣りと定置網漁業が行われており、また海水浴客などを対象とする民宿経営が盛んである。久枝村は桃・煙草の栽培が行われていて江戸で「房国府」と称されるほどの高品質を誇っていた。
【参考文献】
下中弘「日本歴史地名大系第一二巻 千葉県の地名」株式会社平凡社、1996年
(文責:グループ3山川大貴、2016.5.12)
和田町の特徴:クジラと海と花の町
房総半島の南部に位置する和田町は、なんといってもクジラ漁が有名です。日本に4か所しかない中の(北海道網走、宮城県牡鹿、千葉県和田、和歌山県太地)、貴重な捕鯨基地の一つがここ和田町にあります。年間26頭のツチクジラを小型捕鯨という方法で水揚げしています。また、この地域の人々と鯨との間には密接なかかわりと長い歴史があり、昔から鯨の肉を様々な形に加工し売買して食されてきた伝統があります。加工の例の一つとして、鯨の肉を醤油につけ、天日で干した「たれ」は、南房総の伝統食としてとても有名です。
また、和田町の海は非常に美しく、とても人気があります。特に和田浦海水浴場は「日本の海水浴場100選」にも選ばれた穴場スポットで、毎年多くのサーファーが集まりサーフィンを楽しんでいます。また、黒潮が流れる和田町の海岸では、磯釣り・投釣り・船釣りも楽しむことができます。
また、花卉栽培(≒草花栽培)も盛んです。この地域の温暖な気候を生かし、ビニールハウスでは、多くの温室栽培が行われています。ここで、大正から昭和にかけて花卉栽培の基礎を作り上げた偉人として間宮七郎平という人を紹介します。彼は、郷里である和田町で薬局を経営するかたわらに、当時未開の分野であった花卉栽培を始め、その後生花組合の設立や新品種の導入などを行いました。南房総の花卉栽培の発展のための彼の尽力は、南房総の歴史において、非常に重要な役割な役割を果たしています。
丸山町の特徴:日本酪農発祥の地
房総半島南部に位置する丸山町は、日本酪農発祥の地として知られています。8代将軍徳川吉宗がインド産といわれる白牛を輸入、飼育し、白牛酪という現在のバターのようなものを作ったことが始まりだとされています。さらに、丸山町嶺岡牧場は日本酪農発祥の地として千葉県史跡にも指定されました。
また、丸山町のシンボルとして風車とローズマリーも有名です。風車は昭和初期から終戦後まで、水田での水揚げに実際に使われていた丸山風車を町おこしの一環として再興させたもので、現在では町のあらゆるところで目にすることができます。地中海沿岸が原産地のハーブの一種であるローズマリーは、丸山町が地中海と同じ緯度に位置していたことにちなんで、1988年から植栽が始まり、現在のような町のシンボルになっていったとされています。丸山町の道の駅である「ローズマリー公園」では、ローズマリーをはじめとする様々なハーブを楽しむことができます。
この公園には、ノット式と呼ばれる欧風様式の庭園や中世ヨーロッパをイメージした建物が多数あり、異国情緒を楽しむことができるスポットとして観光客からの人気を集めています。公園内にある「はなまる市場」では、ローズマリーを使用したオリジナルグッズやスイーツ、また新鮮な地元産品が多く売られています。
参考資料
『南房総市暮らしの便利帳2015年度版』
南房総いいとこどり
http://www.mboso-etoko.jp/cgi-bin/co_kanihp/explore_list.asp?id=97, 閲覧日2016年5月12日
道の駅ローズマリー公園HP http://www.rosemary-park.jp/index.html 閲覧日2016年5月12日
道の駅和田浦wa-o! HP http://wa-o.awa.jp/ 閲覧日2016年5月12日
(文責:グループ3関真澄 、2016.5.12)